14話)



 気がつくと、陽の光が部屋に差し込んでいて、爽やかな朝だった。
 ベットの横には誰もいない。
 あわてて起き上がると、そばにカウチが置いてあり、すでに二人分の朝食が用意されていた。ほかほか湯気が立っている。
 歩は椅子に座って、茉莉を見つめた。
「涎をたらしてたよ。夫を興ざめさせるの、うまいね。」
 それだけ言うと、サッと立ち上がり、
「すぐにも食べて、さっさと用意しくれないか。予定がさしせまってきてるんでね。」
 と、他人行儀に事を伝えると、自分は何も食べずに部屋を出て行ってしまうのである。
 ゾッとするくらい、冷たい声に、冷水を浴びせられたように寒気がした。
 怒気を十二分に感じさせるその声は、間違いなく茉莉に対する“怒り”が込められていた。
 あまりに今までと違った彼の様子に戸惑ってしまった。
 結婚式の時は、にこやかな笑みを浮かべて茉莉を見つめる視線は、ここまで冷たくなかったのに・・・。
 怒っているのだ。
 怒って当然かもしれないと思った。初夜に、ガーガー眠ってしまったのだから。
 涎まで垂らしていたなら、雰囲気もあったものじゃない。
「けれど、私だって待っていたのよ。」
 閉じたドアに向かって叫んでも、応えはない。
(1時まで待って、さすがに眠ってしまって何が悪いのよ。)
 ・・・そこまで考えて、ふいに思い立つ。
 彼なりの嫌がらせなのかもしれない。・・・と。
 そう思うと、眠ってしまったことに対して謝る気持ちも失せた。
 あわてて用意して、下におりて二人して車に乗り込んだ後、だんまりを決め込む茉莉を、歩はチラリ。と見るも、何も言ってこない。
 すばらしく二人の間に、冷たい空気が流れた。
 最低最悪な新婚旅行の始まりだった。


 新婚旅行の間中、二人は言葉での応戦に明け暮れて、周りの景色を楽しむ所ではなかったのだった。
 歩の冷ややかな言葉の数々に、茉莉も負けてはいない。
 持ち前の負けん気が、頭をもたげて、やり合えばやり合うほど、二人の表情が硬くなってゆく。
 旅行から帰った頃には、二人の間の亀裂は、とんでもなく深くなってしまっていた。まともな会話すら成立しないものになってしまっていたのだ。


 ・・・それからの彼の様子は、
 一歩外に出ると、とても仲のいい表情で、茉莉を見つめてくる。
 しかし、二人きりになると、とげとげしい。
 ほとんど夜は帰ってこなかった。当然の事ながら、歩は茉莉を抱かなかった。
 茉莉も意地になった。
 救いは、三階に住む河田の両親だったかもしれない。
 河田の父は当然のように茉莉を、まるで宝物のように大切に扱ってくれたし、美しい姑にも、よくしてもらった。
 河田家のしきたり?やその他もろもろのものを、茉莉は必死になって覚えていった。
 こういったことは、難なくこなせるのだ。
 結婚前に悩んだのは、何だったのだと思うほどだった。
(さすがに、大奥様にしこまれた私だもの。)
 従業員の名前を覚え、河田家独特の家風・・・これは思ったよりも馴染みやすいもので助かった・・を自分のものにする。
 元は商いで立身した家だったので、高野の家のような格式ばった“あれこれ”に煩わされる事がなかったのである。
 茉莉は”河田家の嫁”としての地位を、確固としたものにしていった。
 夫の前以外では・・・・。



 兄が出奔して穴が空いた分を、大学に入学したばかりの歩が、埋め合わせをする。
 それは、とんでもない重圧のはずだった。
 見る間に顔色が悪くなって、疲労が溜まってゆく歩の様子をみるにつけ、さすがに心配になるくらいだった。
 そんな事、おくびにも出さずに彼の横に立っていたりするので、歩は茉莉が心配しているなんて思ってもいないだろう。
 そのぶん一人でベットに横になる時、ため息が出ることが多くなっていった。
 少しくらいは歩の役にも立ちたいと思うのが、茉莉の正直な気持ちだった。
 けれど、現状は相談相手にすらならない。
 素直になれない自分は、とことん可愛げのない女なんだろうと思う。
 仮面夫婦の関係を、どう壊していいのか、もう分からない状態になっていたのだ。
 こんな筈ではなかったと思う。
 なまじ、彼を想う気持ちがあるから厄介なのだ。
 結婚前の時のように、戻ってやり直したいと思うのは、贅沢な願望なのだろうか。
 愛のある結婚生活を、夢見るのは、茉莉のような者が抱くべきものではないのかもしれない。
 ほとんど諦めに近い境地にたって、ため息をつく夜を過ごすのであった。
 ・・・そんな感じで半年がたった頃。
 体調の変化がないか?とか、やたら聞いてこられるようになって、不思議に思うのだった。
 風邪気味で薬を飲もうとすると、即座に医者行きを言い渡されたりして、首をかしげていたのだが、そこで医者に言い渡された言葉に気がついた。
 河田家の人達は、茉莉の妊娠を期待しているのだ。
 はっきりとは言葉に出さない無言の催促は、茉莉には重く響いた。
 することしてないから、できるわけないのに、彼はにこやかな笑みを浮かべて、
「そんなに焦らさないで。茉莉の事だ。立派な子を生んでくれるよ。」
 と、両親の前で言うものだから、呆れかえってしまった。
(違う男の子を孕めとでもいうの?)
 と、理解に苦しむシーンなんてのもあり・・。
 事態は相変わらずで、さらに一年過ぎるくらいになると、
「もうこの屋敷はあなたたちの物よ。
 舅姑がいると、気をつかってしまうのでしょう。二人でゆったり過ごしなさい。そうすれば、すぐにも可愛い赤ちゃんに恵まれるわ。」
 なんて言って、両親自らが屋敷を出てしまうのである。
 この由緒ある屋敷に住むのは、河田家の跡取りの教育のため。
 跡目を息子に譲った父母は、屋敷をでるのが習わしらしい。
「お義父さま、お義母さま。お願いです。残ってください。」
 と、必死にすがっても、彼らには照れているのだと勘違いされた。
 にこやかな笑みを浮かべて、茉莉には子供を孕む課題を残した。そして、とうとう屋敷を出て行ってしまうのである。
 仮面夫婦を演じる相手がいなくなった歩は、それこそ自由気ままに過ごすようになった。
 まったく茉莉に手をふれないのに、気に入ったメイドには手をだしているらしい。
 いつの間にか、彼の手つきのメイドに世話をさせられている有様だった。
 茉莉は、優越感の混じった彼女らの視線を浴びながらも、毅然とした態度で、接っするしかない。
 おまけに時々、歩の“彼女”も家にやって来るようになってくるのだ。
 信じられない状況だった。
 さすがに茉莉には高校時代からの友人だと説明するが、イチャイチャする様子を目にするにつけ、体の関係がないなんて、到底思えない。
 彼女は、形だけの夫婦の関係に、気付いていて、それをチクリチクリとやってくるので、タチが悪かった。
 そして、彼女は言ってほしくない決定的な一言を茉莉に言い放つのである。
「いずれ、私が歩さんの子をお生みしますわ。たくさん生んで、歩さんを幸せにいたします。
 愛されもしない。“石女の奥様”は、どうして妻の座に居座っていらっしゃるのかしら?」
「・・・・。」
 その通りだった。
 さすがの茉莉も一言も返せない一撃だった。
 おまけに彼女の曽祖父に当たる人は、総理大臣を務めあげていた。父も大臣を歴任。次期総理の声も厚い。
 高野家よりも、格式の高い由緒ある家柄の娘だったのだ。
 何よりも彼女は、茉莉とは違った。
 雑種の血が混ざっていない、純粋な血統を持つ女性だった。


 逃げるように、気がつくと河田家を飛び出していた。